歴史

以下はすべて架空である。また、位置把握の必要性から地名は日本名を用いる。人語名称との対応を示す場合は、日本語[人語:aynu itak]のように表記する。

●黎明期

渡来人漂着

 時は中国戦国時代、戦火を逃れて海に出た渡来人たちは、主に日本を目指した。しかし、一部の者が対馬海流に乗って、あれよあれよという間に流れ着いたのは北海道だった。この時、漢字、稲作、漢方、仏教、儒教などが伝えられた。また、渡来人が乗ってきた船は、造船技術の大幅な進歩も促した。

政府誕生

 先述の渡来人の影響で、日本でもヤマト政権が誕生するに至ったが、こちらでもそうなるのが自然だろう。史実では統一政府をもたなかったアイヌが、漢字を知ったことで事務作業が驚くほどはかどるようになったので、共同体も大きくなり、函館山の頂上に城[:cas]を築いて、王朝を構えた。これを函館政府と呼んでおく。このときの領土は、おもに津軽海峡沿岸の村々で、一部七飯、森などの村も入っていた。

遣唐使

 7世紀中頃、唐からの船団が朝貢国を増やそうと、北海道にも足を延ばしてきた。時の王はこれを受け入れ、人國は唐に、定期的に船を使わすようになった。これは9世紀末頃まで続いた。貢ぎ物を乗せていった帰りに、唐から土産物を持ち帰るのが習わしとなり、その唐の工芸品は工業技術の発展を大いに助けた。 また7世紀頃には、政府の領土は道南一帯に広がっていた。

東北被制圧

 史実でも起こったことだが、794年、日本の征夷大将軍坂上田村麻呂が東北を制圧し、日本の管理下に置いた。これでアイヌの住む土地は、津軽海峡以北となった。

●商人の往来と文化の融合

津軽海峡大航海時代

 日本海を渡れるまでの高度な造船、航海技術を身に付けたアイヌは、日本側との貿易のために、頻繁に津軽海峡を渡るようになった。この貿易商たちによって経済活動が活発になり、函館政府は潤った。また、貿易商たちの拠点として、津軽海峡に面した村は人口が急増した。(1)

対旭川商人と擦文文化

 一方、北海道本土を北上し、旭川方面に出向く商人もいた。この頃には、函館政府の領土が胆振支庁沿岸まで広がっており、この商人たちは苫小牧を拠点としていた。苫小牧も経済活動が盛んになり、発展した。そして、9世紀頃になると、北海道本土のオホーツク海沿岸や樺太などで栄えていたオホーツク文化の北部と、苫小牧、石狩以南あたりで栄えていた擦文(さつもん)文化が混ざり合い、新たな擦文文化が生まれた。根室側のオホーツク文化東部は、樺太側のオホーツク文化と分断され、トビニタイ文化として独自の進化を遂げていくことになる。

街道の整備

 また、函館政府の影響が広範囲にわたるにつれ、交通網の整備が重要な課題となった。時の王は、ウトナイ湖―南千歳間に運河を建設して舟に乗ったまま函館―江別間を往復できるようにする計画を立て、飢饉の年、失業した農民たちを大勢雇って運河の建設を実行に移した。これによって現在まで名の残る戊辰運河、そしてそれを含めた函館―江別間の戊辰街道が完成した。これらの名前は、運河が竣工した年が戊辰の年であったことによる。(2)

対旭川商人の集団移住

 対旭川商人の拠点として賑わった苫小牧であったが、もともと広くはない土地のため、急増する人口に対して農地が不足し始めた。そこで、対旭川商人のうちの一部が、商売の利便性の追求もかねて、石狩川河口付近に集団で移住した。この頃には、戊辰運河が完成していて、往来が容易だった。農業技術を会得した彼らは、移住先で村長のような役割を担い、地元の人と村を築いた。その後、対旭川商人の拠点は徐々に石狩方面に移っていき、やがて江別に落ち着いた。江別は石狩川の他、多くの河川が合流する交通の要衝だった。(3)

愛尼戦争[神作口戰爭:kamuy kar put sensow]

 樺太は、アイヌとニヴフの混住の地であったが、アイヌ側がニヴフ側にたびたび攻撃を仕掛けていた。そして1264年、人國は樺太に大量の軍艦を送り込み、ニヴフを制圧した。

山丹貿易

 史実と同じく人國は、日本海北部で中国東北部やロシアの沿海州と貿易を行い、これは山丹貿易と呼ばれた。ちなみに、蝦夷錦も元はこの貿易によって人國にもたらされた満州人の文化である。

対旭川商人とトビニタイ文化

 13世紀頃、対旭川商人が空知川を伝い、狩勝峠を超えて十勝川流域にも行くようになると、擦文文化とトビニタイ文化の繋がりが強まり、やがて融合して一つになった。これで北海道本土は、ほぼすべて商人の行動範囲となり、やがて函館政府の統治下に入った。

北前船

 日本が江戸時代になると、日本から北前船が頻繁に来るようになった。函館政府は松前に日本人居留地や商館を整備し、北前船が松前に来るように促した。敢えて首都に商業拠点を設けなかったのは、外国人とのトラブルが首都であっては困るからだ、という見方が強い。

●日本統治下

日本統治下

 1905年、日本とロシアの間にポーツマス条約が締結され、日本はロシアから、史実の樺太ではなく人國の征服権を譲り受けた。函館政府側も必死に抵抗したが、日本の艦隊の前に屈し、以後1945年の終戦まで日本の統治下に入ることとなった。

産業の近代化と遷都

 占領に成功した日本は、石狩炭田を発見し、鉱山会社を建てた。そして掘れた石炭を、石狩川下流域に建てた製鉄所まで鉄道や河川で運んだ。古くから商人の町として繁栄してきた丘陵地の江別は、石狩川が氾濫しても被害を受けにくいことから、石狩川下流域の拠点とされ、付近の工業化とともに発展し、1922年に総督府が函館から移転してくるまでになった。

●樺太戦争

第二次世界大戦終結

 810日頃、ソ連が樺太のオハ辺りに上陸し、侵攻を開始した。ソ連軍の南下の速さに驚いたアメリカは、朝鮮で北緯38度線を引いたように、樺太にも北緯50度線に停戦ラインを引いた。なお、814日に日本がポツダム宣言を受諾したことにより、朝鮮と人國は宙ぶらりんになってしまったため、各停戦ラインを境に南を西側陣営が、北を東側陣営がそれぞれ差し押さえた。

アメリカ軍政庁時代

 1945年の終戦後、彼らは人國と名乗ったが、当初はアメリカ軍政下にあり、実際に国家といて独立したのはそれから数年後のことだった。政治体系は王家の血筋を大切にして、立憲君主制、議会制民主主義である。この頃の名残で、自動車交通は右側通行になっている。一方、鉄道は日本統治時代の設備をそのまま使ったので、左側通行のままであり、ややこしくなってしまっている。

樺太戦争

 1950112日、アメリカのトルーマン政権のディーン・アチソン国務長官が、「アメリカが責任を持つ防衛ラインは、フィリピン - 沖縄 - 日本 - アリューシャン列島までである。それ以外の地域は責任を持たない」と発言した(「アチソンライン」)。これを金日成は南朝鮮の放棄と受け取り、現に朝鮮戦争が勃発している。樺太もこのアチソンラインには含まれていないので、東側陣営は南樺太の放棄と受け取り、朝鮮戦争とほぼ同時期に樺太戦争が勃発した。真冬の開戦だったため北国ソ連に有利で、西側陣営は苦戦を強いられたが、結局北緯50度線近辺の分水嶺で停戦となった。その後、北樺太はソ連の構成国の一つとなっている。なお、朝鮮では南北分断によって民族が引き裂かれたといって、盛んに統一運動が行われているが、人國では、樺太の調停ラインがアイヌとニヴフの当時の居住エリアの境目にほぼ合っていたので、そのような運動はほとんどなく、北樺太は北樺太として独自の道を歩んでいる。もともと13世紀にアイヌが侵略した土地だからだろうか。

●戦後の復興と経済発展

1次ベビーブーム

 樺太戦争後の1950年代後半、戦後にはよくあることだが出生率が急増し、日本でいえば団塊の世代に当たる世代が誕生した。この世代が人國の経済成長を支えていく。

三大財閥の誕生と膿川の都市問題

 独立当初の反日感情とは裏腹に、日本が置いていった産業施設などは彼らの復興の糧となり、人國は工業国の道を歩み始めた。このときに、やがて三大財閥と呼ばれるようになる企業のうちの2社、鐡作所、神學所が産声を上げた。

 1970年代、二回にわたるオイルショックによって、人國は大きなダメージを受けた。石油の輸入が激減したため、燃料を国内でとれる石炭にシフトして急場をしのいだ。この頃は、第1次ベビーブームで誕生した世代が丁度20歳になる頃で、豊富な労働力を背景に炭鉱はかつてない繁栄を迎えた。

 このとき、石油用の設備を一時的に石炭用に改造するための多額の需要が発生し、機械工業系の企業は莫大な利益を上げた。また、1970年代後半からのベトナム戦争による特需によって国内産業は機械系、化学薬品系を中心にいよいよ活況を呈し、特に舟掘部、鐡作所、神學所の3社が国内経済を牛耳るまでの大企業に成長し、三大財閥と呼ばれるようになった。

 そして1980年代、オイルショックによる石炭ブームが去ると、石炭の需要が著しく減少し、採掘のし過ぎによる石炭資源の枯渇も重なって、国内で炭鉱の閉山が相次いだ。炭鉱で雇われていた多くの若者が失業し、街にあふれた。このとき、豊富な労働力に目を付けた三大財閥は、石炭特需とベトナム戦争特需で得た潤沢な資金を使って次々と新しい事業を展開し、いよいよ巨大企業となっていった。

 また、炭鉱の労働者が数年のうちに一気に江別などの都市部に勤めるようになったため、各地で、通勤ラッシュの需要に交通インフラの整備が追い付かない事態となり、特に首都江別ではあちこちで慢性的な渋滞が発生するようになった。特に、石狩川の北の下町から通勤するバイクや車は、石狩川に架かる少ない橋に集中し、朝夕は身動きが取れない状態に陥っていた。この渋滞を解消するために、工栄町12[丘切所:Hur tuye i]―篠津交差点と、江別駅―美原第七会館に地下鉄が建設された。また、国鉄は江別近郊区間の複々線化工事を行ったが、急増する通勤需要に対処するための突貫工事だったため、方向別ではなく線路別になっている。さらに、少しずつ道路の改良も行われている。しかし、経済発展にともなって人口が増え、また収入が増えて車を持つ人の数も増え、結局1990年代になっても毎日の渋滞は相変わらず起こっていた。この有様は、「バンコクに準ずる」と酷評されるほど深刻であった。これを受けて、オリンピック開催が決定した1991年、江別の全てのバス通りにバスレーンを設けることが市議会で決定された。

Cupka Project

 1980年代、日高山脈西側の経済発展が著しい中、その東側は立ち遅れた感が否めない状況にあった。東側出身の高區居川総理は、東側地域の開発を推し進めるCupka Projectを決行し、釧路港の近代化をはじめとした東部工業化政策に力を注いだ。

冬季膿川オリンピック

 1998年、実に韓国に遅れること10年となったが、いよいよ人國でもオリンピックが開かれた。オリンピックに合わせて、首都江別近郊の山間には大規模なスキージャンプ場が建設された。なお、史実とは札幌と長野が交換された形になっている。

Seseki Project

 そして21世紀。総理大臣、沼川暖心は、国内の発電量の一部を地熱発電によって賄おうとするSeseki Projectを立ち上げる。東部での建設は、Cupka Projectとの兼ね合いもあって特に進んだ。また、山あいの集落にはマイクロ水力発電所を設置して、集落で電力を自給する試みも始まっている。折しも2011年、日本の大震災で福島第一原発が事故を起こし、原発見直しの機運が高まる中、国内唯一の原発も、第一期の地熱発電所の建設が終了し次第停止することに決まった。またロシアから、宗谷海峡を渡る天然ガスパイプライン(ヴォストークパイプライン)が敷設され、稚内では大規模な天然ガス発電所も建設された。

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