阪福急行四時間〇六分

これは架空鉄道です。たとえ実在する団体名がでてきたとしても、関係ありません。

 実家の街を走っていたあの電車も、大学の最寄駅に来るいつもの電車も、同じ線路を走っている同じ電車である。印象的なシルバーの車体からそれは簡単にわかるのだが、その二つはあまりに性質が違いすぎて、同じ電車だと実感したことは一度もなかった。

 だが、今日は違う。金券ショップで「阪福電気鉄道沿線招待券」を購入し、急行電車を乗り継いで帰省するのだ。この線路は琵琶湖を越えて、敦賀を越えて、福井、果ては勝山までずっと繋がっている。それをまさに実感する時である。

 そもそも「阪福電気鉄道沿線招待券」というのは、つまるところ株主優待券である。これが1500円弱の価格にして、阪福線内どこまで乗っても有効だというのだから、これまで18きっぷを使っていたのがアホらしくなるというものである。実家は勝山と大野の中間に位置するが、九頭竜線の本数の少なさには本当に辟易する。これが阪福ならどうだろう。勝山まで一時間に二本も電車がある。これまでは、福井までせっかく18きっぷで来たのにそこから勝山まで課金するのはもったいないというケチくさい考えから、帰省で阪福を利用したことはほとんどなかった。しかし、今日は存分に恩恵にあずかることができる。

 午前に梅田で所用を済ませ、第2ビルで昼食を取って大阪梅田駅に着いたのは13時30分であった。阪福電気鉄道のターミナル大阪梅田駅は、阪神梅田駅からWhityうめだを直進したところにあり、広い階段が階下へ導く。5番のりばまである大きな駅で、急行ホームは左から2番目の2番のりばである。ちょうど一本前の急行である敦賀行きが発車したところであり、間髪を入れず3番のりばに近江舞子行き区間急行が入線した。駅構内には、録音であろう渋い男声の案内放送が常に響いている。

 1番のりばから近江舞子行き臨時特急が発車した直後、この10分間だけで何度も聞いた心地よい声が、本日の主役の登場を告げた。

「おまちどおさまでした。まもなく、2番のりばに、小浜行き、急行、小浜行きの、急行が、8両編成で、参ります。危ないですから、黄色い線の内側で、お待ちください。天満、大阪天神橋、淡路、茨木、高槻、長岡天神、桂、京都大宮、京都烏丸の順に、止まります。この列車は、堅田で、後から参ります、特急に、追い越されます。」

長い放送を待ちきれないとばかりに、大阪梅田行き区間急行が前のめりになって2番のりばに到着した。シュパアアアンとけたたましい一撃を吐くと、行先表示がくるくると回り、小浜行き急行となって止まった。古めかしくもギラギラして、それでいて安心感のある電車である。これが13時51分発、旅のスタートとなる。

 既に並んでいた2、3人の後に続いて車内に入る。大阪側を向いている座席をバタンと反転させ、進行方向右側の窓際に陣取る。夏の午後、直射日光を受けることがない快適な座席は、進行方向右側と相場が決まっている。滋賀県内では車窓から琵琶湖を望めるのも、右側の特権である。

 13時50分。座席はほぼ埋まり、ドア付近に立つ人が目立ち始めた。単純に京都へ急ぐなら新快速にでも乗ればいいが、運転間隔も運賃も阪福の方が優位であるから、あえて阪福を選択する者も多い。新快速は、京阪間の速達に加え、京都をまたぐ長距離の需要をも一手に引き受けるため混雑するが、その点では阪福の急行も同じことで、京阪間の需要と湖西地域への長距離需要とを同時に担う状態である。とはいえ、阪福の場合は区間急行が京阪間輸送の手助けをして京阪間毎時6本になっているので、まだ救いがあると言えるだろう。

 13時51分。遂にドアが閉まり、小浜行き急行はゆっくりと動き出した。右から合流するたくさんの線路を眺めていると、すぐに電車は左にカーブし、あっという間に次の停車駅、天満に到着した。ここでは地下鉄堺筋線に乗り換えられるが、2層構造なのでその姿をうかがい知ることはできない。列車は天満を極めて事務的に発車し、大阪天神橋に停車した。

 大阪天神橋は、阪福のメインルートである若狭本線系統と、千里線・堺筋線系統とが、同じホームで乗り換えられるようになっている。近鉄でいえば鶴橋のようなイメージだろう。北千里に住んでいる身としては、北千里から大阪梅田に直通する列車を運転してほしいところだが、日中の系統は若狭本線と千里線・堺筋線とで系統が完全に分かれている。今日梅田に出る時も、今隣に見えているホームで乗り換えたのである。

 大阪天神橋を出ると、淀川を渡って柴島を通過する。柴島のあたりで、方向別複々線が線路別複々線に変わるため、立体交差になっている。これを過ぎればすぐに淡路である。淡路も阪福のジャンクションであり、千里線と京都方面相互の乗り換えの他、十三線という短い支線もここから伸びている。更に、現在工事中のJRおおさか東線も淡路を通ることになっており、これが完成すれば新大阪へも乗り換えられる北大阪の一大ジャンクションが出来上がる。これに伴って一帯は再開発が進んでいるが、阪福の線路も連続立体交差化事業の対象であり、前後の駅にまで及ぶ大掛かりな工事が行われている。

 淡路を出ると、茨木、高槻と停車する。茨木も高槻も大きな都市であり、どちらも大阪を強く志向する。車窓を見る限り、この辺りは駅間までしっかり市街地であり、小駅の利用客も多そうである。この急行は、茨木では普通に、高槻では以遠各駅停車の区間準急にそれぞれ接続しており、乗っている急行からも、立っている乗客を中心に降車が目立つ。とはいえ、乗車もあるため車内はそこまで空くことはなく、相変わらず座れない人がいる模様である。

 高槻を出ると、先程までとはうってかわって、車窓を農地が広く占める。大阪市から続く市街地は高槻までだったようで、大阪梅田発の普通が高槻行きであるのも頷ける。

 水無瀬や山崎など、島本町や大山崎町を通過して、高速バスとの乗り換えを重視したという西山天王山を過ぎれば、長岡天神である。長岡天神は、どちらかといえば大阪ではなく京都を志向している街だそうで、京都市の強さというのが東京大宮間などとは異なる京阪間の特徴であろう。その通り、長岡天神では降車より乗車が優勢で、ドア付近の乗客は微増した。ここでも各駅停車である区間準急と接続を取るため、乗り換え客もあったものと見られる。

 次の桂では下りは緩急接続を行わないが、嵐山線に乗り換えられるため、いくらかの降車がある。だが、京都市内ということもあって京都市中心部を志向する動きは強く、同じくらいかそれ以上に乗車があるので、結局碁盤の目の下に潜るまでずっと混雑したままであった。

 西京極を過ぎると地下に入る。戦前に京阪が造った地下鉄道であり、停車した京都大宮にもレトロな趣が感じられる。烏丸通直下で地下鉄と乗り換えられる京都烏丸は、特急も停車する主要駅だが、構造はただの島式1面2線である。元々は京都市内の貫通を第一の目的として造られたトンネルなので、一時期東側のターミナルだった五条大橋以外は、非常に簡素なつくりになっているということである。

 京都大宮、京都烏丸で半分以上の乗客を吐き出して、列車は五条大橋に入線した。五条大橋は真ん中の線路を両側からホームで挟んだ2面3線であり、日中の区間準急は半分がここで折り返す。立っている人がほとんどいなくなった列車から、更にいくらか乗客が降りた。京都烏丸などでは一部乗車もあったものの、降車が圧倒的優勢で、五条大橋発車時には2人掛けクロスシートに1人で座っている場所も見られるようになった。

 京都盆地を出ると、阪福電車は純粋な郊外電車の様相を呈する。ただこの時期特異なのは、車内に一部湖水浴客が見られることだろう。定期の特急は近江舞子には止まらないから、臨時特急を除けば急行が湖水浴客の足となるのだ。駅でも湖水浴の宣伝広告が掲示されているし、「海は遠いから湖水浴」という文化は阪福が育てたものなのかもしれない。

 列車は山科、大津とこまめに止まる。大津は赤十字病院とその裏山との間にひっそりとたたずむ1面2線の駅で、大津という名前だから特急も止まるが、幾分寂しい風情である。鉄道施設の大きさでいえば、次の三井寺下の方が遥かに主要駅に見える。このような事情からか、五条大橋で折り返さなかったもう半分の区間準急は、大津ではなく三井寺下で折り返す。三井寺下は、京阪石山坂本線三井寺駅から徒歩圏内にあり、京阪の坂本方面と阪福の急行大阪方面との乗り換え需要が存在する。このため、三井寺下と大津の利用客数は、大津の立地の悪さも相まって、同程度の水準となっている。この列車でも、三井寺下で数人規模の降車があったのが興味深い点である。

 日吉は比叡山の滋賀県側の入口である。大阪梅田を9分前に出発した区間急行は、一つ手前の叡山でこの急行に抜かれているため、日吉は急行の大阪方面と区間急行の近江舞子方面との接続が取られる駅でもある。ここでまたいくらかの乗客を降ろし、ほとんどのクロスシートが1人で占領される状態になった。

 雄琴温泉のあたりで右手に時折琵琶湖が近づいてくる。堅田を過ぎればいくらでも見られるのだが、ここで一度チラッと見せられるというのが憎い演出ではないか。

琵琶湖が再び離れていくと、堅田に到着する。堅田では2分停車し、その間に永平寺・東尋坊口行き特急が通過する。堅田は大津市北部の拠点であり、またいくらかの降車を見た。乗車も一人あり、結果的に誰も座っていないクロスシートが生じる程度の乗車率となった。

 ここから近江舞子まではノンストップである。先程抜かれたばかりの特急の後を追うかたちで、山と湖とに挟まれた小駅をガンガン通過していく。視点を遠くにやれば、まるで電車が湖面を滑っているがごとく、その疾走感たるや格別である。

 近江舞子はこの時期湖水浴で賑わう。また、区間急行は近江舞子を終着駅とし、以遠はいよいよ急行が各駅停車となる。京都を出たあたりから気になっていた湖水浴客はやはりここで降り、その他にも数人の降車を見た。区間急行からの乗り継ぎ需要がいくらかあるのか、車内の人数は思ったほど激減しなかったが、それでも車内は空いているクロスシートも目立つ。大阪梅田からずっと8両編成で走ってきたが、さすがにこのあたりまで来ると供給過剰と言えるかもしれない。

 北小松、白鬚のあたりも、列車は湖岸をなぞるように走っていく。先程のスピード感はないが、それでもやはり湖の近さは清々しい。湖水浴シーズンということで白鬚浜にも停車し、高島町や安曇川、新旭といった街ごとに少しだけ乗降があるほかは、特にこれといった動きもなく、近江今津到着放送が入った。

「まもなく、近江今津に到着します。3番のりばに到着し、両側の扉が開きます。乗り換えのご案内をいたします。福井方面、東尋坊口行き急行は、右側にお降りいただき、同じホームの向かい側、4番のりばからすぐの発車です。この電車は8両編成ですが、東尋坊口行き急行は2両編成で、この電車の中寄り4号車、5号車の向かいに止まっております。永平寺・東尋坊口行き特急は、連絡通路を通りまして1番のりばから、15時43分の発車です。この電車は、小浜行きです。」

ポイントを渡って3番のりばに入ると、右に短い2両編成の急行が見えた。急行とは言うものの、その実態は武生まで延々各駅停車である。放送で「すぐの発車」と言われていたこの急行は、実は乗り換えに2分余裕があるのだが、8両編成の一番端から60m歩くとなると確かに「すぐ」である。私は、先頭車両の進行方向左側の席に座ることができた。車内には数えるほどしか人がいないが、2両編成になったのでそれほど寂しさは感じない。ここから敦賀に向けて山を一つ越える。

 敦賀まで、さらに言えば今庄の辺りまでは、ひたすら山を越える区間である。マキノの一つ先、小荒路からは単線になるので、対向列車の待ち合わせや特急の待避などで、敦賀までたっぷり47分かかる。途中は人家もまばらで、山林と暗闇とが交代に車窓を埋め尽くす。こんなところでは乗り降りもほとんどなく、極めて単調と言わざるを得ない。一方で列車本数は極めて多い。1時間に片道特急1本、急行2本に加え、特急の増発分がもう1本入る。この急行も、小荒路から先の単線区間では、北野口で対向の急行と特急を2本待ち、次の駄口で対向の急行を待たせて交換、疋田で対向の特急とすれ違い、全ての駅で交換を行ったことになる。こんな区間にも各駅停車を毎時2本確保しているのはさすが電鉄といったところだろうか。今回は訪れないが、近江今津の小浜側にも同じく各駅停車が毎時2本あるという。

 16時27分、敦賀駅に到着した。ここでまた対向の急行と交換である。規模は小さいながらも乗客を入れ替える動きがあって、2分の停車の後発車した。敦賀から先は、行程の中で最大の難所である北陸本線転用区間になる。スイッチバックの信号場が複数残り、この区間のみ各駅停車は毎時1本に限られている。この急行は、途中葉原信号場で対向の特急を待ち、杉津で対向の急行を待って、後は今庄まで後続の特急から逃げるダイヤである。途中の杉津駅から見える日本海は、大正天皇も見惚れたという絶景であり、ここで7分の停車時間があるのは僥倖と言わざるを得ない。ここはスイッチバックではないので、特急ならあっという間に通過してしまうだろう。真夏なのでまだ日没には早いが、強い西日を受けて燦然と輝く銀色の車体もまた格別であった。

 今庄で後続の特急を先にやると、もう追手はやってこない。北陸本線とつかず離れず武生を目指す。今庄、湯尾、南条などで乗客をわずかに増やし、武生に到着したのは17時36分である。

 武生からはいよいよ急行運転となる。4分後の普通列車に接続しているが、特に乗り継ぐ客は見られず、ほとんどが乗車してくる向きの流動であった。発車直後に北陸本線をオーバークロスし、北府の車庫を脇目に快走する。上鯖江、西鯖江、神明と、鯖江市内で乗客を増やして座席が8割ほど埋まった状態になり、浅水、豊と更に加えて数人の立ち客とともに福井駅への坂を上る。北陸新幹線のための高架の上に、現在暫定的に阪福の駅が設けられているのである。17時57分、真新しい福井駅に到着し、実に4時間6分の長旅を終えた。

 ところで、私は実家に帰省するので勝山まで乗らなければならない。再び東尋坊口まで各駅停車となる名ばかりの急行に別れを告げ、北の切り欠きホームに向かった。この接続は非常に悪く、1分前に勝山行きが出たばかりである。仕方ないので18時22分発を待つことにし、ベンチに座って実家に電話を入れた。

【終わり】

阪福電気鉄道:歴史/路線/ダイヤ/車両/その他