歴史

これは架空鉄道です。たとえ実在する団体名がでてきたとしても、関係ありません。

1915年~1945年 電鉄の黎明

 1915年、第一次世界大戦に伴う好景気の中、栗原に亜鉛鉱山を所有していた東京の高田商会では、軍用需要の高まりを見せていた亜鉛の電気製錬に山本豊次所長が成功。翌1916年、水力発電所のある猪苗代に精錬所を建設し湿式製錬を開始した。亜鉛精錬は1917年から1918年に最盛期を迎え、亜鉛鉱山のために栗原軌道を建設した。こうした中、猪苗代の水力発電所から東京まで高圧送電線が完成し、東京に電力を供給することになった。精錬所の電力を他から調達することを迫られた高田商会は、鉱山近くの江合水電と10年間の電力契約を結んだ。

 しかし、1918年11月11日、第一次世界大戦が終結すると、亜鉛の需要が激減、高田商会は大量の余剰電力を抱える事態となり、この電力を何かに活用することが急務となった。そこで、松島観光の中心地から駅が離れていた東北本線に代わる新たなルートとして、仙台―松島間の高速電車が発案された。この路線は仙台―塩竈間で東北本線・塩竈線と並行し、鉄道省が難色を示すことが予想されたため、同じく国有鉄道線に並行する阪神電気鉄道などに倣い、軌間1435mm、直流600V電化の軌道法準拠で建設することになった。

 こうして1922年、宮城電気軌道が設立され、1925年に西塩釜、1927年に松島公園、1928年に石巻まで線路を敷設、仙台―石巻間の高速電車が誕生した。仙台駅は、東北本線をトンネルで越えた先の西側に建設する予定であったが、建設費が嵩んで不可能となったため、複線断面のトンネルの半分をホームにして1面1線の地下ターミナルとした。これが日本初の地下鉄道である。

 宮城電気軌道は、開業前からの資金難に加え、開業後に発生した恐慌もあり、しばらく苦境に立たされたが、満州事変に伴う好景気で乗客が増加し、松島への観光輸送に注力した。また、戦時体制下には、沿線に東京第一陸軍造兵廠仙台製造所(現陸上自衛隊仙台駐屯地)や多賀城海軍工廠(現同多賀城駐屯地)などの軍需工場が建設されたほか、矢本に海軍航空隊の基地(現航空自衛隊松島基地)が設置され、今度は軍事産業の通勤輸送で活況を呈することになった。このように軍事的に重要になった宮城電気軌道は、国有化の話が幾度となく出ては消えを繰り返した。国有化が困難だったのは、宮城電気軌道が標準軌の軌道であったことが大きいと言われ、多額の費用をかけてこれを改造するくらいなら、既存の国有鉄道線を使って仙台・多賀城両工廠にアクセスを試みた方が合理的と判断されたようだ。結果、宮城電気軌道は国有化を免れ、私鉄として存続している。このころ、陸上交通事業統合の流れの中で、宮城電気軌道を核に県下の鉄道・バス事業者をまとめる案が浮上し、1944年、宮城電気軌道、秋保電気鉄道、仙台鉄道、栗原鉄道、仙北鉄道のほか、数々のバス会社を合併して宮城鉄道が誕生した。このとき、宮城電気軌道線に宮城線、秋保電気鉄道線に秋保線、仙台鉄道線に仙台線、栗原鉄道線に栗原線という路線名が付与された。

※東北本線松島駅から海岸方面に伸びていた松島電車は、破綻の後の1939年、監督官庁の指導の下宮城電気軌道に吸収されたが、1944年には不要不急線として廃止された。

1945年~1974年 戦後復興と都市間連絡特急

 宮城県下のありとあらゆる交通事業者を統合して発足した宮城鉄道は、バラバラな規格の路線が寄り集まっただけの組織であり、戦後すぐに分社の話が持ち上がった。宮城鉄道の中核であった旧宮城電気軌道系の経営陣は、電気鉄道である秋保線は宮城鉄道に残し、非電化軽便鉄道である仙台線、栗原線、旧仙北鉄道登米線および築館線を切り離す決定を下した。このとき秋保線を自社に存置したのは、表向きには宮城線と同じ電気鉄道だったからだということになっているが、秋保温泉という集客施設のある地域を手放したくないという思惑があったとされる。また、分社の際には多くのバス路線も自社に留めたが、これも、せっかく宮城線沿線以外の都市に営業範囲を広げられたものを、みすみす放棄したくないという考えがあったといわれる。宮城鉄道発足時に統合されたバス会社には、早期に鉄道事業を見切り、バス一本で勝負していた仙南交通自動車などがあった。

 こうして、戦時統合の残滓を払拭しスリムになった宮城鉄道であったが、戦後の混乱期にあたって需要に対し車両が足りないという事態に直面していた。沿線に軍事施設や軍需産業が多く立地する宮城鉄道では、戦中から車両を酷使し続けており、戦後の混乱期に入ってその無理はあらゆるところに露呈していた。そこで、国鉄63系電車の割り当てを受けた東武鉄道からデハ3形電車の譲渡を受け、台車を標準軌用に改造した上で導入し、車両の増備を図った。デハ3形も戦中からの酷使で疲弊しており、窓、吊革、座席のモケットなどを一から取り付ける大改装を必要としたが、この車両の導入を契機として、宮城鉄道は軌道法準拠から地方鉄道法準拠に移行し、架線電圧を直流600Vから直流1500Vに昇圧した。これに合わせて、宮城鉄道は宮城電気鉄道に改称し、現在の社名となった。

 そのころ仙台駅前には、佐々木光男が空襲の焼け跡にバラック小屋を建て、1946年に丸光合名会社として雑貨店を開業していた。1949年には2階建ての新店舗も開業し、さらに大きな店舗を建設する計画も立てられていた。仙台駅を起点とする宮城電気鉄道は、この丸光に出資してデパートの建設に参画し、1953年、鉄筋コンクリート造地下1階、地上3階建ての丸光宮電百貨店をオープンさせた。当初の計画では、宮城線開業以来の地下駅から百貨店に直接上がれるような構造を目論んでいたが、この前年、1952年に宮城県で国体が開催され、再開発の一環でターミナルが東口に後退してしまったことは残念であった。そこで、従来の地下駅を東口の新駅との連絡通路として活用することとなった。

 東口の新しい仙台駅は、確かに立地は悪くなったものの、国鉄仙台駅から見て市街地の反対側ということで2面3線の広さを確保することができ、1面1線の地下駅のころと比べて運行上の支障は明らかに減少した。そこで、戦後の復興とともに高まってきた需要に応えるため、宮城線に急行列車の運転が計画されるようになった。車両は、戦前製の車両の老朽化が目立ってきていたことから、戦後初めての新型車両を導入することになった。そうして1957年に製造されたのが1000系急行型電車である。車体長約18.5mにおよぶ大型の車体は名鉄5000系電車に準じた当時流行の日車ロマンスカーであり、長野電鉄2000系電車とは兄弟にあたる。1000系は着実に数を増していき、急行列車を中心に充当されたが、旅客需要の高まりとともに列車本数も増えたため、戦前製の旧型車を置き換えるまでには時間がかかった。また、1000系で置き換えない分の旧型車については、1960年ごろから順次日車標準車体の2扉クロスシート車に載せ替える改造を施していった。これも車体長約18.5mの大型電車である。

1000系急行型電車
1000系急行型電車

 急行列車が登場した1957年のダイヤが以下の図である。急行はサボの色で赤急行と青急行の二種類に分けられ、赤急行が速達便、青急行が松島公園以東で各駅停車の役割を担う列車であった。赤急行と青急行はそれぞれ毎時1本運転され、組になって仙台―高城町間急行30分間隔を実現した。一方の普通列車は、複線区間の仙台―陸前原ノ町間のみ15分間隔で、それより東は30分間隔、東塩釜より先高城町までは60分間隔であった。地方都市としてはまずまずではあるのだが、市街地のまばらな東塩釜以東では各駅停車が60分間隔であり、発車時刻の面では毎時間同じという電鉄らしさがあったものの、本数の面では現在ほどの利便性はなかった。

 一方、秋保線は1950年代前半には不採算路線に転落していた。このころの秋保線は設備が前時代的なまま放置されており、スピードアップなどのサービス向上は難しく、仙台陸運局からも設備の改善を行うよう指摘されていた。そこで宮城電気鉄道は、設備の近代化という目的に加え、市内交通の一元化という建前を掲げて、仙台市交通局に秋保線を有償譲渡する提案を行った。これを受けて、長町駅に仙台市電との連絡線を設けて直通運転の試験が行われるなど、秋保線の交通局移管へと準備が進められていったが、市議会で買収反対派の巻き返しに遭い、買収案は否決された。このとき、仙台市電はすでに全車ボギー車であり、パンタグラフ集電化および自動信号化を達成してすっかり近代的に生まれ変わっていたが、秋保線はいまだトロリーポール集電、バッファ付きねじ式連結器、スタフ閉塞方式という設備であった。

 秋保線の交通局への譲渡が土壇場で不可能になった宮城電気鉄道は、自社で秋保線を近代化するか、廃止してバス転換してしまうかの選択を迫られた。ちょうど当時は、秋保線沿線で宅地開発が始まったころであり、近代化するなら温泉行きのトラムとしてではなく通勤通学客の輸送を想定した高速鉄道として整備する必要があった。高速鉄道化には、新線建設に等しい莫大な費用がかかると見込まれる一方、宮城電気鉄道は1952年の仙台駅移設、1953年開業の百貨店建設、1957年の急行型電車導入などで多額の出費をした後であり潤沢な資金を用意できなかった。高速鉄道化の計画も立てなかったわけではないが、高速鉄道規格の電車にいっぱいの乗客を長町で仙台市電に乗り換えさせるのは不可能と予想されたため、秋保線を仙台駅まで延伸する計画にしたところ、市電と競合するとして仙台市が難色を示し、叶わなかった。戦後の宮城鉄道分社の際には、秋保温泉を手放したくないということで秋保線を自社に存置した経緯があったが、バスにした方がサービスをよくできるなら電車にこだわる必要はなかった。このような状況下で秋保線はバス転換されることになり、1961年に廃止された。廃線跡はバス専用道に転用され、宮城電気鉄道バスが仙台市中心部との間を結んでいる。

 上記のとおり、1960年代初頭には秋保線沿線で宅地開発が始まっていたが、これは宮城線沿線も例外ではなかった。高度経済成長に伴う産業の発達と沿線人口の増加によって、宮城線の需要はますます高まっていたが、ほぼ全線にあたる陸前原ノ町以東が単線の状態では線路容量がいっぱいになっていた。複線化工事には時間がかかることが予想されたため、まずは現状と同じ列車本数でより多くの乗客を運ぶことができるよう、車両の改善に着手した。1960年ごろから、戦前製旧型車を2扉クロスシート車2000系に改造する作業が進んでいたが、1960年代半ばごろからは、未改造の分を3扉ロングシート車2500系に改造するよう計画を改め、完成し次第朝の混雑列車に優先的に充当していった。一方の複線化工事も1968年から1969年にかけて次第に東進し、西塩釜まで複線を到達させるに至った。

 複線が塩竈市内まで到達したことによって運行上の制約は少なくなり、朝夕の混雑時間帯には列車の増発が可能になった。日中においてもダイヤ編成の自由度が増し、1969年のダイヤ改正では拠点間速達輸送を狙った特急列車が登場した。

 この特急列車は、改正前の赤急行を置き換える形で導入された新種別であり、仙台―石巻間において途中本塩釜と松島公園にしか停車しなかった。仙台市と、工業都市塩竈市、観光地松島、そして終着石巻市と、停車駅を極限まで絞っており、宮城線の歴史上空前絶後の列車であった。この特急を毎時1本の軸として、それを補完する急行が毎時1本入る。急行は、改正前の青急行の直接の後身にあたり、松島公園以東で各駅停車となる。また、この改正で重要だったのは、仙台市から塩竈市にかけての区間でローカル列車が倍増した点である。新たに準急列車が設けられ、仙台―陸前原ノ町間および多賀城―東塩釜間のローカル輸送に供された。単純に普通列車の倍増とならなかったのは、当時陸前原ノ町―多賀城間は農地の開発規制が敷かれており人口がまばらであったためであり、準急が通過するのはこの間の三駅のみであった。

 このようにキレッキレの特急を運転して勢いに乗っていた宮城電気鉄道であったが、1973年に転換を迫られる。オイルショックによってマイカーから鉄道に移行する人が増え、需要が急増したのである。

1974年~1990年 オイルショックによる方針転換とライバルの登場

 オイルショックによる需要の急増を受けて白紙ダイヤ改正を行ったのが翌1974年である。すべての区間において優等列車の本数を倍増し、また、東塩釜―石巻間では各駅停車も倍増し毎時2本とした。さらに、1969年改正で極限まで絞った特急の停車駅を増やし、特に単線区間での乗車機会の増加を図った。

 車両面でも、この改正に合わせて3000系通勤型電車が登場した。オイルショックによって電車通勤が増加したことを受けて新造が決定したものである。オイルショック発生まで、宮城電気鉄道は沿線の都市構造に鑑みて都市間直結輸送に重点を置いており、新造する電車は1000系急行電車ばかりだった一方、通勤型と呼べる電車は戦後すぐ東武鉄道から譲渡を受けたデハ3形(全長15.9m 3扉)と、1960年代半ばごろから旧型車を改造して造った2500系(車体長18.5m 3扉)くらいであった。このような状況で電車通勤が急増したため、通勤型電車の大量増備は急務であった。

 3000系は、2500系と同じく3扉ロングシート車の完全な通勤型であるが、戦前製旧型車の車体を載せ替えただけの2500系が吊り掛け駆動であるのに対して、新造の3000系はカルダン駆動の近代的な電車である。3000系は普通列車のみならず急行列車などにも幅広く運用され、深刻化する混雑の緩和に多大なる貢献を果たした。これ以降、電車の新造はほぼこの3000系のみとなり、通勤輸送の強化と旧型電車2000系・2500系の一掃が進められた。

3000系通勤型電車
3000系通勤型電車
宮城電気鉄道仙台駅
宮城電気鉄道仙台駅(一部せき先生制作)

 そのころ、国鉄仙台駅では大規模な工事が行われており、それに伴う駅前の再開発が急速に進行していた。宮城電気鉄道はこれに合わせて仙台駅の再移設を決定、1978年、国鉄仙台駅の迂回運転解消や西口バスターミナル供用開始と同時期に、百貨店直下の新ターミナルを完成させた。私鉄のターミナルは頭端式の櫛形ホームになりがちだが、このころ宮城線は地下鉄の計画線と乗り入れする可能性があったため、西側に延伸できるようあえて櫛形を避けた構造になっている。また1981年には、塩竈市内の高架複線化を達成し、東塩釜駅まで複線を到達させた。

 1980年代に入り、3000系通勤型電車が一定数出揃い、戦前製の足回りで奮闘していた2000系・2500系が駆逐されたころ、国鉄は全国の地方都市近郊区間において幹線の普通列車を大増発するシティ電車化を推進しており、その波は仙台都市圏にも及んでいた。1985年、宮城線と並行する東北本線仙台―松島間では普通列車が30分間隔に増強され、宮城線を睨んでさらなる増発も検討されていた。宮城電気鉄道はすでに高城町まで優等列車毎時4本体制を確立していたため、追加の対抗策として、田園地帯の三駅を通過していた準急を普通列車として小駅の利便性を向上させたうえで、石巻方面の列車を多賀城駅で緩急接続する方式に改めて塩竈市内各駅への速達性を高めた。国鉄と特に近接する塩竈市および松島町において、国鉄駅と距離の近い駅のみならず域内全駅の利便性を向上させることによって、国鉄に反撃したかたちである。このとき、仙台方面の列車が多賀城駅で緩急接続できなかったのは、当時の多賀城駅が南口を表口とする国鉄型配線(2面3線)であり、ここで待避を行っても優等列車と普通列車を同じホームにつけられなかったからである。また、旧型車が駆逐されたことで列車のスピードアップが達成され、単線区間での交換が円滑になった。これにより特急、普通ともに所要時間が短縮され、特急列車の所要時間は仙台―石巻間で石巻行き58分、仙台行き54分となった。

仙石線205系から見る東塩釜―陸前浜田間の車窓
仙石線205系から見る東塩釜―陸前浜田間の車窓

 ここから日本はバブルに突入するが、観光地松島に出かける特急列車にデラックスな車両が求められる一方で、1957年導入の1000系急行型電車は陳腐化が否めなかった。そこで1988年、宮城電気鉄道は側面窓を大きく開け松島の大パノラマを楽しめる4000系特急型電車を導入し、優先的に特急列車に充当した。4000系の製造にあたり、これまで分割窓の車両ばかり導入していた宮城電気鉄道が頑なに連続窓にこだわったという話は地元のマニアに有名である。また、前面窓も大きくデザインされており、運転士と反対側の進行方向右側最前列に座れば十分前面展望を楽しめる構造となっている。

4000系特急型電車
4000系特急型電車

1990年~2016年 連続立体交差事業と車種統一

 1990年、宮電石巻駅をJR石巻線石巻駅に統合する工事が完了し、これを機に石巻駅は1面2線から2面3線に拡張された。続いて1991年には陸前原ノ町車庫を東の宮城野車庫に移転し、着々と現在の宮城線の姿が出来上がっていった。

 その集大成が、1990年代に行われ2000年に竣工した仙台市内区間の連続立体交差事業である。これによって仙台駅付近のみだった地下区間は陸前原ノ町駅まで延長された。仙台―陸前原ノ町間の経路は、建設当時存在した片倉製糸工場と宮城野撓曲とを避けて南北に湾曲しており、仙台駅東側の再開発を伴う地下化でこの区間の線形は大幅に改良された。この工事が始まるときにはまだ地下鉄東西線との乗り入れ計画があったが、地下線が完成した2000年には仙台市の計画が決定し、東西線の東部についても市が独自のルートで建設することになったため、宮城線の仙台駅は恒久的なターミナルとなった。なお、この地下化工事に先立って、宮城野車庫西側に2面4線の小鶴新田駅を開業し、工事によって待避機能が失われる陸前原ノ町駅の代替を果たした。地下線完成後も陸前原ノ町駅は2面2線とされ、仙台―多賀城間における待避駅の役割は完全に小鶴新田駅に移った。

 また、地下化工事完成に合わせて、ステンレス製の5000系汎用電車が登場した。この車両の特徴は、特急から普通まですべての種別に充当することを念頭に置いている点である。宮城線の優等列車はすでに単なる都市間電車ではなく、普通列車と組になって郊外電車として機能する列車に変わっており、バブルの勢いで導入した4000系はこの目的には使いづらい車両であった。また、下位種別に充当される3000系も、1974年の導入から四半世紀が経ち、後継車両の導入が待たれる状況にあった。そこで、これら二つの目的を同時に満たし、宮城線の車種統一を図って導入されたのが5000系である。

5000系汎用電車
5000系汎用電車

 さらに2005年、宮城野原駅に近い宮城球場が東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地に指定され、以降宮城線は野球ファンの輸送という新たな任務を負っている。プロ野球開催日には、試合開始と終了に合わせて宮城野原を始終着として多賀城、塩竃方面への臨時列車を運行している。一方の仙台駅は宮城球場までわずか2.0kmの距離にあり、JRで来場する観客は別運賃になることを嫌って徒歩を選択することが多いため、仙台駅への臨時列車は運行していない。

 仙台市東郊の農地開発規制が緩和され、ますます郊外電車の性格を強めた宮城線は、多賀城駅での完全な緩急接続を実現するため、多賀城駅の高架化工事に合わせてホームの配置を変更した。この工事は2012年に完了し、仙台―高城町間ではこのときに改正されたダイヤが現在まで受け継がれている。また、2011年に発生した東北地方太平洋沖地震による影響で宮城線は運休を余儀なくされたが、年内に高城町―矢本間を残して運転を再開し、翌2012年には陸前小野―矢本間も復旧した。2015年には、特に海岸線に近いところを走行していた野蒜駅付近を内陸に移設して復旧し、全線で運転を再開した。2016年には、陸前赤井―蛇田間の復興ニュータウン内に交換設備付きのあゆみ野駅を新設して新しい市街地へのアクセス向上を図るとともに、朝の通学列車の交換を円滑にした。同年、これに合わせて単線区間の特急停車駅に陸前小野、陸前赤井、蛇田、宮電山下を追加し、単線区間の利便性を高めた。

参考文献

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仙台駅 - Wikipedia 2016年12月28日閲覧

仙台駅バスのりば - Wikipedia 2016年12月28日閲覧

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宮城球場 - Wikipedia 2016年12月29日閲覧

石巻あゆみ野駅 - Wikipedia 2016年12月29日閲覧

宮城電気鉄道:歴史/路線・ダイヤ/車両/その他