京宮電気鉄道

歴史

京宮電気鉄道成立まで(20131220)

 京宮電気鉄道(京宮電鉄)の前身の一つ、王子電気軌道(王電)は、東京府北豊島郡王子町周辺の電気軌道事業を目的として設立された。王電は1911年に大塚―飛鳥山上(史実現:飛鳥山)間開業させて以降、1928年までに面影橋―王子駅前(:王子)―三ノ輪(:三ノ輪橋)間と王子柳田―赤羽(:京宮赤羽)間を完成させた。

 一方、京宮電鉄のもう一つの前身である東京大宮電気鉄道は、鉄道省が1926年に策定した「東京近郊地方鉄道網案」の「放射5号線 大塚―志村―戸田」を高速鉄道として敷設する目的で設立された。この放射5号線には将来の延伸先として大宮も記されていた。創立総会が行われた1928年当初の計画では、省線大宮駅を起点に現国道17号沿いに与野、浦和、蕨、板橋を経て省線大塚駅に至る予定であったが、後に、起点を大宮氷川公園(:氷川神社)、終点を巣鴨駅に変更した。起点の変更は、既に行楽客輸送を目的として成功していた京王御陵線を手本にしたものであり、終点の変更は、東京市が計画していた市営地下鉄巣鴨―万世橋間に接続するためのものであった。しかし、地価の高騰で用地取得が困難になり、東京大宮電気鉄道は特に人口過密な東京市内の鉄道敷設を諦め、荒川より東京側では自社線ではなく王電で大塚乗り入れを果たすことにした。東京大宮電気鉄道は元々1067mmでの建設を予定していたが、これにより王電と同じ1372mmに計画を変更した。

 その頃、王電は電灯事業が好調な半面、軌道事業が営業収益の足かせになっており、東京大宮電気鉄道が軌道事業を買い取りたいと打診すると、王電は破格の値段でこれに応じた。これを機に東京大宮電気鉄道は京宮電気鉄道(京宮電鉄)に改称した。王電線を利用して大塚駅に乗り入れられる目途が立ったとして、京宮電鉄は荒川の戸田橋以南を赤羽方面に曲げる修正計画を申請し、受理された。この計画変更は、「放射5号線 大塚―志村―戸田」という国の当初の計画からは外れていない。

 自前で東京市内に路線を造った場合に比べてはるかに予算に余裕が出た京宮電鉄は、埼玉県内の路線を戸田、蕨、浦和、与野、大宮と着実に建設し、王子駅前―王子柳田間の接続と合わせて1936年までに面影橋―氷川神社間を全通させた。しかし、「予算に余裕が出た」といっても、極貧が貧乏になっただけであり、路線は至る所でカーブを描いている。また、王電線を利用したことによって、王子駅前―赤羽間に4km弱の併用軌道区間を抱えてしまった。これは、東京大宮電気鉄道設立当初の「高速鉄道」の理念に反するものであり、早期の解消が望まれた。

 なお、史実では存在する王電早稲田―面影橋間は無く、都電側が面影橋まで路線を伸ばす。15系統の高田馬場行き線路は無く、1961年当時15系統も39系統も面影橋発着である。

図1 陸上交通事業調整法
図1 陸上交通事業調整法

大東急時代(20131218)

 1938年に施行された「陸上交通事業調整法」により、天王洲、品川、新宿、赤羽、荒川放水路で囲まれた領域の軌道とバスは東京市が、地下鉄は営団がそれぞれまとめて運営し、郊外については右図のように中央線、東北線、常磐線を境に、東京横浜電鉄、武蔵野鉄道、東武鉄道、京成電気軌道がそれぞれのエリアを一括で運営することになった。京宮電鉄は所属するエリアでいえば武蔵野鉄道に吸収されるはずであるが、武蔵野鉄道は戦後まで大きな合併を行わず、京宮電鉄も武蔵野鉄道に吸収されることはなかった。一方、東京大宮電気鉄道及び王子電気軌道に出資していた渋沢栄一は、東京横浜電鉄の前身である田園都市株式会社の創始者でもあり、また、先述の武蔵野鉄道のエリアでは、東急系の東都乗合自動車と関東乗合自動車が武蔵野鉄道に吸収されることなく存在していることから、京宮電鉄も1944年に京王電気軌道とともに「大東急」に吸収された。

高速鉄道の実現と地下鉄との接続(20140204)

 戦後、大東急は解体され、京宮電鉄も再度独立した。戦後の混乱が落ち着くと、喫緊の課題でありながら延伸を優先して放置されてきた王子駅前―赤羽間の併用軌道区間の解消に乗り出した。しかし、区部ということもあり用地が確保できず、結局北本通り上の併用軌道を端に寄せて柵一本で仕切っただけの簡素な専用軌道になった。これで王子駅前、神谷橋、下村の各駅は道路上から離れたが、このように専用軌道を無理に造ったため、ホームはとても狭くなってしまった。この時、王子駅前は「王子」に改称した。

 高度経済成長期に入り乗客が増加すると、列車を長くする必要に迫られた。ホームの前後を道路に挟まれた大塚駅前は使用不能となるため、駅周辺を高架化し、山手線乗り換えターミナルとしてふさわしい駅に改造が施された。電停のイメージを払拭した大塚駅前は、「大塚」に改称した。一方の王子は、駅こそ専用軌道上であるものの、国鉄王子駅をくぐる部分は併用軌道でかつカーブであり、さながら京阪京津線浜大津付近といった様子のままであった。

また、大塚の先、東京側のターミナル面影橋は、神田川を渡る高戸橋付近に急カーブを抱えているため、長くした列車が安全に通れない事態となった。そこで地下鉄東西線(高田馬場―面影橋―江戸川橋―飯田橋―九段下)が開業する1964年までに、千登勢橋以南を高架化して神田川上に被せることによって急カーブを緩やかにする工事を行うことにし、それまでの数年間は大宮方面からの列車を大塚止まりにして短編成のピストン列車を面影橋と大塚の間で往復させる措置を取った。

 1964年に千登勢橋以南の工事が完了すると、京宮電鉄は王子駅付近を除いて高規格な鉄道となった。地下鉄東西線とターミナル面影橋で乗り換えられるようになり、特急が再び面影橋発着となったことで、面影橋は小さい駅ながらターミナルの賑わいを取り戻した。1974年に地下鉄有楽町線が池袋―銀座一丁目間に開業すると、特急は東池袋にも止まるようになり、駅は主に官公庁に向かう乗り換え客で溢れた。

地下鉄南北線の開業と岩槻線計画(20131220)

 1968年、都市交通審議会答申第10号において、東京7号線(南北線)は「目黒方面より飯倉片町、永田町、市ケ谷、駒込及び王子の各方面を経て赤羽方面に至る路線」と示された。後に、三田から泉岳寺経由で五反田方面に向かうはずだった都営三田線が、白金高輪から目黒まで南北線に乗り入れることになるが、この「目黒」というのは、東急目黒線を介して港北ニュータウン方面を指向するものである。しかし、7号線の赤羽側にある私鉄は軌間1372mmの京宮電鉄であり、もし京宮電鉄に軌間を合わせるなら東急目黒線との乗り入れはかなわない。実際、赤羽方面では鳩ヶ谷市、浦和市東部への新線が計画として存在し、運行の柔軟性を確保する狙いから、この新線は京宮電鉄と同じ1372mm規格で建設すべきと考えられた。この流れの中で、1972年の答申第15号では、7号線は目黒起点ではなく品川起点に改められ、代わりにまだ全通していなかった都営三田線を三田から目黒方面に曲げ東急目黒線と乗り入れさせることとされた。

 1991年に南北線が駒込―王子間で開業すると同時に、京宮電鉄王子駅も改良され、地下の一大ジャンクションとなり、相互乗り入れを開始した。地下鉄折り返しのための引き上げ線は、将来の鳩ヶ谷方面延伸の際には本線となる構造である。

 南北線の開業を受けて1995年に建設を開始した京宮電鉄岩槻線は、2001年に王子―浦和美園間全線が開業した。この時、北本通り直下を走る岩槻線に神谷橋、下村両駅を一本化し、ホームがとても狭かった本線側の二駅は廃止された。この前年、地下鉄南北線は品川まで全通し、大宮市から山手線を縦に貫通する一本の筋が完成した。南北線も有楽町線と同じく皇居南西部を通るため、有楽町線との乗り換えのために特急が停車していた本線東池袋は再び特急通過となり、王子から南北線に入る列車に乗るよう促している。

●路線

図2 京宮電気鉄道路線図
図2 京宮電気鉄道路線図